ログイン小春の浅く荒い呼吸を聞きながら、樹は窓の外をじっと見ていた。
雨粒がガラスを激しく叩き続ける。
「樹様、先生がいらっしゃいました」
「お待たせしました」
部屋へ入ってきた初老の医師は、ベッドで眠る小春を見るなり表情を引き締めた。
「診察します」
樹は無言で一歩下がる。
医師は手際よく熱を測り、瞳孔を確認し、聴診器を当てていく。
診察が進むにつれ、その眉間の皺は深くなっていった。
「……これは」
静かな声が漏れる。
「どうした」
樹の問いに、医師は樹に顔を向ける。
しかしすぐには答えない。
言葉を探しているようだ。
「かなり栄養状態が悪いですね」
医師は小春の細い手首へ視線を落とした。
「ただ痩せているだけではありません。長期間、まともな食事を摂れていなかったと思われます」
樹の瞳が細められる。
「感染症の確認もしたほうがよいでしょう」
医師は考える仕草をする。
「麻疹か、何か……日本では予防接種がありますから……」
“日本では”。
その言葉で樹は医師が小春を外国籍、痩せ具合から貧困地域の者だと勘違いしたことが樹には分かった。
栄養失調。
医者一族の娘に出るとは思えない診断。
それどころか、現代の日本においてはあまり聞くことはない。
聞くとすれば。
(……虐待)
「彼女は日本人だ。確認したわけではないが、小学三年くらいまでの予防接種は受けているだろう」
「安全のため検査は行います」
医師は手際よく採血をする。
あまりにも細い腕に樹は眉を寄せた。
「意識がないのは高熱だけが原因ではないでしょう。栄養状態も悪く、おそらく疲労も溜まっているかと」
医師の声に痛ましさが滲む。
「あと数時間発見が遅ければ、命に関わっていた可能性もあります」
樹は目を閉じる。
「……そうか」
短い返事。
しかし、その声はいつもより低かった。
「それと」
医師は左手をそっと持ち上げる。
「この左腕ですが……昨日今日にできたものではありませんが、肘の関節に歪みがあります」
「痛みがあるのか」
「おそらく。日常ではなくても重いものを持つなどしたときは痛みがあったでしょう」
「……治るのか」
樹の質問は当然のものだが、医師は微かに視線をそらした。
「完全に戻るのは難しいでしょう。外傷、おそらく骨折だと思いますが、適切な治療は受けたもののリハビリが不十分だったと思われます」
樹は黙って小春の左腕を見つめた。
白く細い腕。
その腕が不自由なまま、彼女は今まで生きてきた。
「多少でも、改善する可能性があるなら手を尽くしたい。どこに相談すればいい」
「確認し、改めてご連絡します」
頷く樹の表情を見て、その張り詰めた怒りに医師は恐る恐る口を開いた。
「先ほど使用人の方から、この女性の体は痣がたくさんあったと聞きました」
「俺も聞いている」
医師はためらいながらも続ける。
「持病などの可能性もありますが……虐待を受けていた可能性があります」
その言葉に部屋の空気が凍りつく。
樹は何も言わない。
ただ小春の寝顔を見つめている。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
医師が慎重に口を開いた。
「警察へ相談したほうが……」
「本人の意思を確認するまでは何もしない」
樹は小春から視線を逸らさず答えた。
「だが」
その一言だけで部屋の温度が下がった。
「今日の診察の記録をしっかりと残しておいてほしい」
体にある虐待の痕はときが経てば消える。
いや、必ず消す。
しかし、なかったことにはさせない。
「必ず報いは受けさせる」
医師は小さく息を呑む。
この篠原樹という男を世間は『冷酷』と呼ぶ。
その意味を改めて思い知った瞬間だった。
.
診察を終えた医師が部屋を出ると、樹はゆっくりとベッドの傍らへ腰を下ろした。
そして、ためらうように小春の左手をそっと包む。
「この腕は……あの日か」
眠る小春は答えない。
だが樹の脳裏には、痛みに耐えながらも笑っていた少女の姿が鮮明に浮かんでいた。
「予定を変更する」樹は柳沢へ視線を向けた。「皆川が動く前に、こちらも準備を進める」「準備……それでは、小春様を皆川様に会わせるのですか?」「いや」樹は静かに首を横へ振る。「まだだ。小春にはこのことをまだ秘密にしておく」「はい、そのほうが宜しいでしょう」柳沢にしては強い肯定。樹が軽く目を瞠ると、柳沢は少し照れ臭そうに笑った。「絶対に小春様の味方になると言えない限り、私は反対です」「そうだな」樹が表情を緩める。「今、小春へ皆川の話をしても混乱させ、不安にさせるだけだ」「はい」樹は窓の外を見る。「味方になるかは分からないが、皆川が小春の敵になることはないだろう」樹はゆっくりと言葉を続ける。「皆川と朝比奈家を離して考えることはできない」それは事実。「ここで皆川が真実を知って朝比奈崇道を更迭させてみろ」想像し、柳沢の眉間にしわが寄る。「朝比奈家の直系は小春様のみ。小春様もしくは、小春様に婿をとらせてその者を院長にしようとするでしょう」「婿……本来なら門倉悠真がそれだったが……」樹はここで気づいた。「皆川は門倉悠真が小春との婚約を破棄したことを知っているのか?」「そういえば……調べます」二人揃って互いの顔に『忘れていた』と書いてあるのを見て苦笑する。「柳沢。皆川隆盛について、もう一度調べ直せ」柳沢は少し意外そうな表情を浮かべた。「改めて、ですか」「皆川が何を知っていて、何を知らないのか。それを整理したい」樹は机を指で突いた。「小春はいま自分のやりたいことを探している最中だ。皆川が勝手に描いた青写真に小春が巻き込まれないようにしないといけない」「分かりました」柳沢はすぐにメモを取る。「それと」樹は一枚の書類を机へ置いた。「これは……?」「皆川が朝比奈総合病院で受けた治療の一つだ」「……海外で開発された新薬の治験、ですね」「内容について調べてくれ。特に、皆川の症状でこの治験を受けた場合、目を覚ます可能性はどのくらいあったのか、だ」「……どういうことです?」「ここには朝比奈崇道のサインがある」「はい」「この治験で皆川が目を覚ますとしたら? 朝比奈崇道が門倉悠真と朝比奈千夏の婚約をあんな形で発表するとは思えない」「……この許可書のサインが、本人のものではないと?」「サインは本人のものだろうが、
朝比奈総合病院の特別病室では、皆川隆盛が窓の外を静かに眺めていた。昏睡状態から目覚めて数日。体力はまだ戻っていないものの、意識ははっきりとしていた。「皆川様、お加減はいかがですか」担当医が病室へ入ってくる。「悪くないよ」隆盛は穏やかに答えた。「歩く練習も始めたい」「もう数日は安静になさってください」担当医は苦笑する。その姿に隆盛も内心苦笑してしまう。安静にしろ。まるで自分の回復を望んでいないかのように。ずっとこればかりだった。「安静にするなら、自宅でもいいのではないか?」モニターに繋がれていた状態ならば諦めた。でも今は点滴すらしておらず、日に二回こうして担当医から問診を受けるだけ。「退院したい」―― お前は医者か?亡き親友ならばそう言っただろう。医者でもないくせにでしゃばるな、と。「それは……」皆川の言葉に担当医は困った顔をする。判断できない。そう書かれた顔に、お前は医者だろうと言ってやりたくなった。「退院を急ぐ必要はありません」急ぐ。その言葉が隆盛の胸を刺した。確かに急いでいるのだろう。「急ぐ理由ができたんだ」もう遅いかもしれない。その言葉は胸にしまう。「小春に会いにいかなければならない」担当医の肩がびくりと震えた。「だ、だめです!」のらりくらりと躱していた担当医が大きな声を出した。隆盛は静かに彼を見る。「なぜ?」「なぜって」目が泳ぐ。「まだ安静にしていなければならないからです」「……そうか」隆盛は静かに呟いた。窓の外を見る。窓ガラスに、顔に安堵を浮かべる担当医が映っ
「俺がいてほしいと思った」樹の言葉が小春の胸の奥で何度も繰り返される。そんなふうに言われたことなど、一度もなかった。「……私なんかが?」思わず漏れた言葉だった。「私じゃなくても、樹さんなら話し相手くらい……」樹が軽く目を瞠る。「話し、相手?」「……違うのですか?」小春は首を傾げる。そんな小春を樹はまじまじと見たあと、笑った。「……え?」「そうか、話し相手か……ははっ、面白い」「……え?」樹は一息ついた。「そうだな。小春には俺の話し相手をしてもらおう」「あの……ですから、話し相手ならもっと……」「もっと?」「会社の方とか、ご友人とか……」「それはお前の代わりにはならない」小春は言葉を失う。「そもそも、比べる話じゃない」「……え?」「小春」樹は穏やかな口調で続ける。「小春、俺は世間では何と言われている?」「冷酷……です」「そんな俺に、気軽に話ができるような奴がいると思うか?」「でも……冷酷なんて、嘘だから……」「そうだな……でも、嘘で友人なんて簡単にいなくなるだろう?」樹の言葉に小春の身体が震えた。「そう、ですね」心当たりがあった。「でも……」「納得できないか」「……すみませ
夕方。樹を乗せた黒塗りの車が静かに屋敷へ滑り込んだ。「お帰りなさいませ」使用人たちが一斉に頭を下げる。「ああ」短く応じた樹は、そのまま屋敷へ入る。「小春は?」「お部屋にいらっしゃいます」橘が答えた。「今日は一日、お部屋でお過ごしでした」「体調は」「問題ございません。ただ……」橘は少しだけ言葉を選んだ。「少し気になることがございます」樹は歩みを止める。「何だ」「小春様がお仕事をお探しになろうとしています」樹の表情は変わらなかった。しかし、その場の空気だけがわずかに張り詰める。「お部屋で求人サイトをずっとご覧になっていたようです」「そうか」静かな返事だった。樹はしばらく黙っていた。「止めなかったのか」「止めることはできました」橘は正直に答える。「ですが、小春様にとって働くことは、ご自分の居場所を作ることなのだと感じたのでお止めしませんでした」「……なるほどな」樹は小さく息を吐く。朝比奈家で身についたことなのだろう。あの家では、小春は役に立たなければ存在を認められなかったに違いない。だから小春は、ここでも働かなければ捨てられると思い込んでいる。「樹様」橘が静かに尋ねる。「小春様に、お仕事をさせるおつもりはございますか」樹はすぐには答えなかった。「ある」やがて静かに口を開く。「だが、今すぐにではない」「それは、お体がまだ万全ではないからでしょうか」「それもある」樹は頷く。「一番の理由は違う」橘は黙って続きを待つ。「今の小春は、自分のために働こうとしていない」樹は窓の外へ目を向ける。「この家に迷惑を掛けたくない。ただ、そのためだけに仕事を探しているのだろう」「……確かに、そのように感じました」「そんな状態で働いてほしくない。小春には、小春のやりたい仕事をしてほしい」橘は首を傾げた。「樹様は、小春様のやりたいことが分かっておられるのですか?」「いや……想像はつく、といったところだな」樹は肩を竦めると、階段へ向かう。「先に小春と話をしてくる」橘はその背中を見送りながら、小さく微笑んだ。 ◇◇◇コンコン。静かなノックが部屋に響いた。「はい」小春が返事をすると、扉がゆっくりと開く。「樹さん」樹の姿を見た小春は慌てて立ち上がった。「お帰りなさいませ」「……ただ
樹は書斎へ戻ると、机の上へ皿を置いた。仄かに甘い香りがする。甘党の樹が傍らに菓子を置くことはよくある。でもこれは、高級ホテルの菓子でも、有名店の限定品でもない。小春が作ったクッキー。それだけで、その価値は樹の中でそれらを上回る。しばらく眺めたあと、一枚だけ手に取る。口へ運ぶと、優しい甘さがゆっくりと広がった。「……うん」飾り気のない味。でも、不思議と心が温かくなる。「社長」ノックとともに柳沢が入ってくる。「本日の資料です」「ああ」柳沢は書類を渡そうとして、ふとクッキーののった皿に目を留めた。「小春様がお作りになったものですね」「ああ」「野菜がたっぷり入っているそうですが」だから何だと言うように、樹はもう一枚口へ運ぶ。その穏やかな表情に、柳沢は思わず笑みを浮かべた。「昔を思い出した」そう言って、樹は静かに目を閉じる。脳裏に浮かぶのは病院の廊下。何もできずにいた自分。ただ泣いていただけの自分を引っ張ってくれた強い少女。その少女に与えられたのは。――お前という奴は!平手打ちだった。少女は父親に頬を打たれて、床に投げ出された。少女は三角巾で吊った左腕を押さえながら、痛みに呻いていた。そんな少女に父親は何も言わず、少女に背を向けた。そして傍にいた二人、頬に絆創膏を貼った少女と、その少女によく似た女性を連れて去っていった。起き上がった少女は泣いていなかった。笑っていた。――あの女性の命が助かったのよ。――人の役に立ったんだから。涙をこらえた、震える声でそう呟いていた。あの小さな背中。あの日の樹には見ていることしかできなかった。 『人の役に立った』ただ、その言葉を胸に刻み込むことしか。.「社長?」柳沢の声で現実へ戻る。「あの頃の俺は、何も持っていなかった」樹は静かに呟く。「力も、金も、人を守る立場も」「だから見ていることしかできなかった……ですか」「そうだ」事故のあと、樹の生活は一変した。そして決めた。力と、金と、彼女を守る立場を手に入れる。必死だった。わき目も振らずに、我武者羅に。気づけば十年経っていた。そして、その頃に小春が『悪女』だという理不尽な噂が広がっていることも知った。それでも樹は動かなかった。動けなかった。小春には婚約者がいたから。樹が動けば、小
「どの型で焼かれますか?」峰の言葉に、小春は箱の中を覗き込んだ。星。花。動物。ハート。思っていた以上にたくさんの型が並んでいる。「こんなに……」思わず感嘆の声が漏れた。「小春様がクッキーを焼かれると聞いて、使用人が百円ショップへ走ってくれたんです」「百円ショップ……」小春は目を丸くする。「こんなお屋敷の方も利用されるんですね」峰が笑う。「職場が豪華なだけで、私たちは普通の人間ですよ」そして少しだけ声を潜めた。「それに、樹様もよく利用されます」「え?」「整理整頓の便利グッズをネットで見つけると、『買ってきてくれ』と頼まれるんです」小春は思わず吹き出した。「樹さんが……?」「ええ」CEOという地位にあり、冷酷という噂の樹。そう恐れられている人が、百円ショップの商品を調べている。その光景を想像すると、何とも言えず微笑ましかった。「ふふっ……」自然と笑みが零れる。「可愛い……」その一言に、厨房のスタッフたちも思わず笑った。小春は照れながら箱へ手を伸ばす。たくさんある型の中から選んだのは、小さな鳥だった。「鳥、ですか?」料理長が尋ねる。「はい」小春は嬉しそうに頷いた。「お庭で見かけた鳥を思い出して」ボス。樹の幼い頃から代々受け継がれているという、あの少し勇ましい鳥。巣箱を守ろうと必死になっていた姿が頭に浮かぶ。「あとは……」「小春様、ハート型も可愛いです」使用人の言葉に、小春はハートの型も手に取った。「これは……」ハート型というのは照れ臭い。「これを四枚合わせると四つ葉のクローバーになります」「幸運の印」「いいことがありそうですね」彼らの言葉に、小春は考え直す。ハートなら恥ずかしいけれど、四葉のクローバーなら鳥とも合う。「それじゃあ、これも使います」「はい」ハートなのか。四つ葉なのか。それは見るほう次第なのだと、使用人たちはひっそりと笑った。.峰が均一に伸ばした生地を台へ置く。「どうぞ」小春は鳥の型をそっと押し当てた。ぽこん、と可愛らしい形が生まれる。その隣にもう一つ。さらにもう一つ。やがて鳥たちが並び始めた。その合間に、小さなハートも並べていく。「お上手です」「可愛いですね」厨房の空気が自然と和らいでいく。焼き上がる頃には、甘く香ばしい香りが







